はじめに
自然農法を千葉県富里市で1978年から始めた高橋 博です。長男、高橋 邦延から高橋家の歴史を語るように言われましたので、ここでは、大正時代に埼玉県から入植して以降の私たちの歩みと、自然農法に出会ってから土に向き合って生きてきた日々についてお伝えします。
入植・開拓する
初代・高橋 仁兵衛治
高橋 仁兵衛治は、大正の初め埼玉県から富里市の当地に入植しました。
埼玉の土地は狭く、農家の次男だったこともあり、広い耕作地を求めて入植してきたと聞いています。先進的な農家で、一度、畑に出たら苦しいという声も出ず、休まず2反(600a)の畑を手鍬で耕し尽くすような人だったそうです。地域でもそのことは有名で、若い時、周りの人から、よくそんな話を聞かされました。見知らぬ土地に移住し、開拓を体験した人の精神はとても強いものがありました。
戦後、高度成長期を生きる
二代目・高橋 勝一郎
高橋 仁兵衛治の長男、高橋 勝一郎が二代目となりました。戦後、高度成長期の農業に積極的に取り組み、地域をリードしました。手鍬を使っていた時代に、トラクターの導入や農薬・化学肥料の使用を先駆けて行ったそうです。戦後、何もない時代から立ち上がり、当時最先端の農業に取り組んでいました。その姿を見ていて、農業は素晴らしいと三代目になる私も心を躍らせていました。
自然農法と出会う
三代目・高橋 博
農家になろうと思い、農業試験場に1年間研修に通った後、社会に出て感じたことがありました。それは高度経済成長時代の裏側とも言えることです。人間の汚さ、醜さです。人を騙し、人を下げてでも自分がもうけ、のし上がろうとする社会がありました。自分さえ良ければいいという世界で、これが大人の世界なのかと衝撃を受けました。
その頃の私は、汚れることが大人になることなのだと思い、だったらとことんやってやろうと考えました。世の中に染まろうとして必死に金儲けに走っていました。 でも、心のどこかに純粋な自分がいて、もう無理だ、こんな農業はやめようと夫婦で話していた矢先、ある人との出会いがありました。
その人が、私の師となる人でした。その人は自然農法という農業を全国に広めようとしていました。しかし、まだまだ道半ばでした。 千葉県に赴任したその師は言っていました。
「この土地に普及できなければ、他ではできない」
誰かさきがけとなり、中心になる人が1人いれば——そんなタイミングで、 知人の紹介で私に声がかかったんです。どこか歪んでいた私の心も、自然農法の話を聞き
「この農業なら、純粋に生きられるかもしれない。」
「儲けだけではなく、純粋な思いで農業ができるかもしれない!」
そう思えるようになりました。 本当に魅了され、農業に可能性を感じることができたので、自然農法に取り組むことを決意しました。そこから師のもとで3年間の修行が始まりました。
それは厳しい修行でした。農業技術だけでなく、人としてどう生きるかを教わるような期間でした。肥料や農薬をやめて、今までとは全く違う農業を始めることになりました。いきなり全面積実践するのは危険だったので、まずは5アールから始めました。そして少しずつ約10年かけて、3ヘクタールまで広げていきました。
その頃の私は、汚れることが大人になることなのだと思い、だったらとことんやってやろうと考えました。世の中に染まろうとして必死に金儲けに走っていました。 でも、心のどこかに純粋な自分がいて、もう無理だ、こんな農業はやめようと夫婦で話していた矢先、ある人との出会いがありました。
その人が、私の師となる人でした。その人は自然農法という農業を全国に広めようとしていました。しかし、まだまだ道半ばでした。 千葉県に赴任したその師は言っていました。
「この土地に普及できなければ、他ではできない」
誰かさきがけとなり、中心になる人が1人いれば——そんなタイミングで、 知人の紹介で私に声がかかったんです。どこか歪んでいた私の心も、自然農法の話を聞き
「この農業なら、純粋に生きられるかもしれない。」
「儲けだけではなく、純粋な思いで農業ができるかもしれない!」
そう思えるようになりました。 本当に魅了され、農業に可能性を感じることができたので、自然農法に取り組むことを決意しました。そこから師のもとで3年間の修行が始まりました。
それは厳しい修行でした。農業技術だけでなく、人としてどう生きるかを教わるような期間でした。肥料や農薬をやめて、今までとは全く違う農業を始めることになりました。いきなり全面積実践するのは危険だったので、まずは5アールから始めました。そして少しずつ約10年かけて、3ヘクタールまで広げていきました。
土と向き合う
最大の壁「肥毒」への挑戦
自然農法の実践でぶつかる壁、それが「肥毒」でした。
自然農法は肥料や農薬を使わず、自然の力を活用して作物を育てる栽培ですが、無肥料・無農薬で育てようとしても、それだけでは育ちません。過去に使われた肥料や農薬が土に残っていて、それが虫や病気の原因になると教わりました。土に残った病害虫や病原菌の原因となる異物を「肥毒」と呼んでいます。
一般農法では、肥料成分が土に残っていた方が良いのですが、作物に病害虫や病気がどうしてもでます。それを農薬で排除するわけです。 しかし、病害虫や病原菌が出るのは、土が本来のバランスを壊しているからで、そのバランスを取り戻すために症状として病害虫や病原菌が出て作物を腐らせ、土の中の不純物である肥毒を外に出していると考えられています。
しかし、肥毒が土の中にあると言われても、それを実地で観察した人はいませんでした。だから私は実際に土を掘って確かめることにしました。自然農法成田生産組合の技術開発部長として、組合員とともに5年かけていくつかの方法で肥毒を調査しました。すると確かに肥毒と思われるものが、土に残っていたのです。
簡単にいうと他の場所より「冷たく、硬く、水もち・水はけが悪い」場所があったのです。 そして、これまで肥毒は3〜5年でなくなると言われていましたが、10年たっても、土に残っていることがわかりました。
なぜなら時代を追うごとに肥料農薬を使う量も増え、土の中にある肥毒も、増えていたからです。昭和初期には3〜5年で肥毒が抜けていたものが、10年経っても、肥毒が抜けていない場所がある。これでは作物が育たないと思いました。年々、収穫量が落ち、経済的にも限界でした。
でもある時、まさに衝撃的な気付きがありました。
「原因は一つ。“肥毒”だとしたら、逆に簡単じゃないか」
農薬も肥料も与えない農業。 ならば、植物が自然界で育つ理由にヒントがあるはず。そう考えたのです。
一般農法では、肥料成分が土に残っていた方が良いのですが、作物に病害虫や病気がどうしてもでます。それを農薬で排除するわけです。 しかし、病害虫や病原菌が出るのは、土が本来のバランスを壊しているからで、そのバランスを取り戻すために症状として病害虫や病原菌が出て作物を腐らせ、土の中の不純物である肥毒を外に出していると考えられています。
しかし、肥毒が土の中にあると言われても、それを実地で観察した人はいませんでした。だから私は実際に土を掘って確かめることにしました。自然農法成田生産組合の技術開発部長として、組合員とともに5年かけていくつかの方法で肥毒を調査しました。すると確かに肥毒と思われるものが、土に残っていたのです。
簡単にいうと他の場所より「冷たく、硬く、水もち・水はけが悪い」場所があったのです。 そして、これまで肥毒は3〜5年でなくなると言われていましたが、10年たっても、土に残っていることがわかりました。
なぜなら時代を追うごとに肥料農薬を使う量も増え、土の中にある肥毒も、増えていたからです。昭和初期には3〜5年で肥毒が抜けていたものが、10年経っても、肥毒が抜けていない場所がある。これでは作物が育たないと思いました。年々、収穫量が落ち、経済的にも限界でした。
でもある時、まさに衝撃的な気付きがありました。
「原因は一つ。“肥毒”だとしたら、逆に簡単じゃないか」
農薬も肥料も与えない農業。 ならば、植物が自然界で育つ理由にヒントがあるはず。そう考えたのです。
自然を師とする
事実として40年以上経つ畑で野菜が育っている
科学ではまだ証明されていないが、事実として畑では光と水と土の状態が整えば作物は育っていたのです。そして、土の状態としては、暖かく、柔らかく、水もち・水はけよい土壌が理想とされていました。
「肥毒」のある土は、逆に土を冷やし、土を硬め、水を保てず、また水を保水できない土になってしまいます。だからこそ、「肥毒」を取り除き、暖かく、柔らかく、水もち・水はけよい土壌を作っていきます。
太陽の光、月のリズム、土の本来の力、これらが合わさって土の力になると考えられています。
やってみた結果、40年、何も与えないのに「うまい」作物ができています。 「考えられないことが、現実に起きている」難しいことではなかった。むしろ、頭で計算しないからこそ純粋だったのです。
山の木々や野山の草花は、養分を与えなくても育っています。 庭の大木は、落ち葉を毎日きれいに掃除していても、毎年、葉を広げ、枝を伸ばします。 自然の姿にこそ、全ての答えがあります。壁にぶつかった人には、この事を伝えたい。
「肥毒、肥毒、肥毒」
まずは起こった出来事を理念・原理原則に照らして考え、土の歴史、過去の農法に向き合い、何が妨げとなっているのか、何かが「肥毒」となっていないか、自然を師として考え判断して欲しいと願っています。
この農業は、取り組むことで自分自身の心も浄化されていく。そんな思いがあります。 「汚れた自分が、畑とともに綺麗になってきた」 そう感じています。
千葉県北部のこの地で、 取り組み始めて45年、最初の20年はなかなか作物が安定して育たず、想いだけでは生きていけないと何度も感じた年月でした。しかし時間とともに、その意味が見えてきました。そして、自分は数々経験し、失敗も重ねてきたが、これから自然栽培に取り組む人は同じ失敗はしなくてもいい。そう考えて、研修生を受け入れたり、自然栽培の普及に全国をあるいたりした時期もありました。ご縁のある方が全国で自然栽培に取り組んでくださっています。
「肥毒」のある土は、逆に土を冷やし、土を硬め、水を保てず、また水を保水できない土になってしまいます。だからこそ、「肥毒」を取り除き、暖かく、柔らかく、水もち・水はけよい土壌を作っていきます。
太陽の光、月のリズム、土の本来の力、これらが合わさって土の力になると考えられています。
やってみた結果、40年、何も与えないのに「うまい」作物ができています。 「考えられないことが、現実に起きている」難しいことではなかった。むしろ、頭で計算しないからこそ純粋だったのです。
山の木々や野山の草花は、養分を与えなくても育っています。 庭の大木は、落ち葉を毎日きれいに掃除していても、毎年、葉を広げ、枝を伸ばします。 自然の姿にこそ、全ての答えがあります。壁にぶつかった人には、この事を伝えたい。
「肥毒、肥毒、肥毒」
まずは起こった出来事を理念・原理原則に照らして考え、土の歴史、過去の農法に向き合い、何が妨げとなっているのか、何かが「肥毒」となっていないか、自然を師として考え判断して欲しいと願っています。
この農業は、取り組むことで自分自身の心も浄化されていく。そんな思いがあります。 「汚れた自分が、畑とともに綺麗になってきた」 そう感じています。
千葉県北部のこの地で、 取り組み始めて45年、最初の20年はなかなか作物が安定して育たず、想いだけでは生きていけないと何度も感じた年月でした。しかし時間とともに、その意味が見えてきました。そして、自分は数々経験し、失敗も重ねてきたが、これから自然栽培に取り組む人は同じ失敗はしなくてもいい。そう考えて、研修生を受け入れたり、自然栽培の普及に全国をあるいたりした時期もありました。ご縁のある方が全国で自然栽培に取り組んでくださっています。
家族とともに
そこに支えがあればこそ
今では長男が、自然栽培に取り組み始めてくれています。彼には彼なりの想いがあり、この農業を自ら選んでくれました。私としても、自然栽培を絶やすわけにはいかないという想いがありました。
息子が継がないのなら、誰かに託してもいいとさえ思っていたのです。しかし幸いにも、彼が決断してくれたことで、この農業の取り組みを次世代へ繋ぐことができています。
高橋家には、世の中のために尽くすという姿勢が、代々の生き方として根づいていたように思います。私の場合はそれが自然栽培という形で表れました。長男の中にも、周りの人のために動くという姿勢を感じる時があります。きっと次の時代を切り拓いてくれると信じています。
そして、高橋家には、代々たくましい女性たちがいました。 母は厳格な父を支えながらも、必要な時にはきちんと意見を交わす、芯のある人でした。そして私の妻・とめ子も、素晴らしい女性です。彼女がこの家を支えてくれました。私が昼も夜も飛び回り、自然農法に没頭する間、彼女が家を守ってくれました。そして経営的に苦しかった時代も、彼女が支えてくれました。支え続けてくれたことに心から感謝しています。
邦延も素敵な伴侶を迎え、新しい家庭をもち、私にも孫ができました。 邦延の妻・記代は、我が家に嫁ぐ前はフレンチレストランで6年間料理の仕事をし、その後はアパレルショップの店長として6年間勤め上げた経歴の持ち主です。その経験のせいか、彼女の人に対する接し方には、感心することがよくあります。また、料理の手際の良さ、あるもので工夫する姿勢には、経験がよく生きていることを感じます。本人としては、将来、自然栽培の食材を生かしたお店を出したいという希望があるそうです。きっと実現できると思っています。
今の世の中は、厳しい時代です。それでもこの困難を家族で乗り越えたとき「この経験には意味があった」と思える日が、きっと来ると信じています。
高橋家には、世の中のために尽くすという姿勢が、代々の生き方として根づいていたように思います。私の場合はそれが自然栽培という形で表れました。長男の中にも、周りの人のために動くという姿勢を感じる時があります。きっと次の時代を切り拓いてくれると信じています。
そして、高橋家には、代々たくましい女性たちがいました。 母は厳格な父を支えながらも、必要な時にはきちんと意見を交わす、芯のある人でした。そして私の妻・とめ子も、素晴らしい女性です。彼女がこの家を支えてくれました。私が昼も夜も飛び回り、自然農法に没頭する間、彼女が家を守ってくれました。そして経営的に苦しかった時代も、彼女が支えてくれました。支え続けてくれたことに心から感謝しています。
邦延も素敵な伴侶を迎え、新しい家庭をもち、私にも孫ができました。 邦延の妻・記代は、我が家に嫁ぐ前はフレンチレストランで6年間料理の仕事をし、その後はアパレルショップの店長として6年間勤め上げた経歴の持ち主です。その経験のせいか、彼女の人に対する接し方には、感心することがよくあります。また、料理の手際の良さ、あるもので工夫する姿勢には、経験がよく生きていることを感じます。本人としては、将来、自然栽培の食材を生かしたお店を出したいという希望があるそうです。きっと実現できると思っています。
今の世の中は、厳しい時代です。それでもこの困難を家族で乗り越えたとき「この経験には意味があった」と思える日が、きっと来ると信じています。
純粋さこそ
自然農法の素晴らしさ
自然農法の素晴らしさ、それは“純粋さ”にあります。
「土づくり」「種づくり」「人づくり」
その全てが本物でなければいけない。 そして取り組んできて思います。これは本物だった。やってきてよかったと。自分一代で終わるのなら、それは単なる苦労話に過ぎません。しかし、そうならないために、この農業を日本から世界へ。同じ想いを持った人々とともに、これからも歩み続けたいと思っています。
「土づくり」「種づくり」「人づくり」
その全てが本物でなければいけない。 そして取り組んできて思います。これは本物だった。やってきてよかったと。自分一代で終わるのなら、それは単なる苦労話に過ぎません。しかし、そうならないために、この農業を日本から世界へ。同じ想いを持った人々とともに、これからも歩み続けたいと思っています。